1000年前の城跡にできた要塞。国境の島・対馬で歴史を体感する「砲台巡り」のススメ
福岡空港からわずか35分で渡島できる対馬は、大陸までわずか50キロメートルの位置にある国境の島。地元ライターによる「対馬の砲台」からダイナミックな歴史を体感する島旅のススメ。
(取材・文 対馬ライター 佐々木達也)
砲台跡を巡り、日本の歴史に思いを馳せる
まずは、日本城郭協会の「続日本100名城」にも選ばれる古代山城・金田城です。
別名「かなたのき」と呼ばれる金田城は、663年、日本と百済遺民の連合軍と、唐と新羅連合軍が戦った「白村江(はくそんこう)の戦い」の後に築かれました。
大陸からの侵攻に備えるために築城され、1350年以上たった今でも、当時の城壁の一部が残っています。
時代は移り明治時代に入ると、金田城跡をはじめ、島のいたるところに外国からの脅威に備えるための防衛拠点として、砲台が作られ「対馬要塞」と呼ばれように。
明治政府は、対馬の重要性に早くから着目していたので、対馬要塞は、首都の守りを固める東京湾要塞に次いで全国で2番目に整備が始められました。
明治20年~昭和14年にかけて対馬に造られた砲台は、なんと31カ所。その砲台のあとが今も対馬に残っているのです。
対馬で最初に造られた砲台の1つが「芋崎砲台」。対馬空港から車で30分ほど走り、さらに歩くこと30分ほどすると、茂みの中に突如として石積みの構造物が目に入ります。
ここは、日清戦争前の明治20年から1年をかけて造られた砲台で、28センチ榴弾砲という大砲が4門備えられていました。
石で造られた弾薬庫などが当時の面影を残しています。また、奥に進むとレンガで造られた部分が見えてきます。拡張工事で造られた部分ですが、石とレンガが混在した砲台は、全国的に見ても珍しいものです。
芋崎は、対馬の中央部にある浅茅湾の入り口に近い場所にあり、朝鮮半島がよく見える場所にあります。
実はこの場所、幕末にはロシアの軍艦に半年間占拠された事件の舞台でもあります。砲台の場所からさらに降りた海岸近くには、占拠中に造られた井戸が今も残っています。
ここは、昭和4年から5年をかけて造られた砲台で、ワシントン海軍軍縮条約によって不要となった巡洋戦艦「赤城」のの45口径砲 塔40.6センチカノン2門が据え付けられていました。当時としては世界最大の巨砲。
実戦で使われたことはありませんでしたが、訓練で撃った時の衝撃は、住民たちに地震が起きたと思わせるほど凄まじかったそうです。
この春、Re島に出掛けませんか?
「私がおススメする対馬の冬は、脂がのった海の幸。お刺身だけでなく、対馬でしか食べられない郷土料理で!」(対馬ライター 佐々木達也)
>> ご予約はこちらから♪
<対馬への島旅はこちらをチェック>
対馬の基本情報 >>
対馬へのアクセス情報 >>
対馬への旅行プラン >>
対馬への島旅で知っておきたい島事情 >>